一九五五(昭和三十)年に、西日本一帯で百三十名の死者と一万三千四百二十二名の被害者をだした「森永ひ素ミルク中毒事件」が発生して、五十年が過ぎた。この五十年はつぎのように大きく三つの時代に分けることができる。
第一は、一九五五(昭和三十)年~一九六九(昭和四十四)年、事件発生から丸山報告までの十四年間である。この時代に、被害児の親たちの運動は起こったが、またたく間に森永と行政と医学者たちによって巧妙に押さえ込まれてしまった。その結果、被害者とその家族は切り捨てられ、なんら救済されることなく十四年間放置された。「被害者が切捨てられ、放置された時代」である。
第二は、一九六九(昭和四十四)年~一九七四(昭和四九)年、事件後十四年たってもまだ被害児に重い後遺症が残っていることを明るみに出した丸山報告から「ひかり協会」設立までの期間である。この時代は、当時の社会情勢を反映し、「被害者救済に向けて運動が高揚した時代」である。親たちの運動が活発におこなわれ、良心的な医師や弁護士など様々な専門家、民主的諸団体、自治体や消費者からの支援の輪がみるみる広がり、国も被害者の立場に立ち、森永乳業は追い詰められていった。そしてついに守る会、厚生省(現、厚労省。以下同じ)、森永乳業の三者が合意して財団法人「ひかり協会」がつくられ被害者の救済がスタートする。
第三は、一九七四(昭和四十九)年から現在まで、「ひかり協会」によって「金銭の給付事業」や「相談事業」などさまざまな被害者救済が開始される時代である。守る会、厚生省、森永乳業の三者はそれぞれの立場と責任で恒久対策案に協力することを確約し、今日まで誠実に実行されている。救済資金はひかり協会の求めに応じて森永が全額出し、厚生省は行政上の措置で協力をし、守る会は協会理事会運営に参加したり現地事務所の取り組みに協力したりする等、日本にそしておそらく世界にも前例のないかたちでの被害者救済事業を三十一年間続け、今なお発展させてきている。この間、守る会運動の担い手は親から子へと着実に引き継がれ、救済事業の場でも被害者同士が支えあう協力員活動など独特な活動も生まれている。
本書の第1章「世界に例を見ない事件、そして世界で初めての救済方法」では右のような、事件と運動と救済事業がたどってきた道について書いている。また、第2章「十人が語る森永ひ素ミルク中毒事件」は、守る会の機関紙「ひかり」に二〇〇五(平成十七)年一月号から五十周年記念の取組みとして毎月連載したものである。事件発生から今日まで被害者救済のために献身的な活動をされた多くの方のなかから十人を選び、守る会役員がインタビューしたものをまとめている。しかし、そこに登場されないけれども多大な貢献をしていただいている方々が多数いらっしゃることも強調しておきたい。さらに第3章では、現在の被害者救済事業や守る会の状態について紹介している。
この五十年間を振り返ってみても、大規模な食品公害や事故による被害が後を絶たない。そして、そのほとんどが法廷での和解によって加害者側が補償として一時金を支払うという方法で「解決」されているのではないだろうか。森永ひ素ミルク中毒事件の被害者は乳児であった。親たちの願いは「決して金が欲しいのではない。将来にわたってこの子たちの健康と幸福を保障してほしい」というものであった。この親の子どもを思う真の願いが、「三者会談方式」とも「ひかり協会方式」とも呼ばれるかつてない救済方法を生み出し、被害者が初老期に入ろうとする今日まで救済事業を続けさせているといえる。この親たちの人道主義的・社会正義に立った願いは今日守る会運動の原点として被害者本人たちにも受け継がれ発展させられている。
現在も八百人近くの障害のある被害者や健康被害に苦しむ被害者がいる。五十年前の事件は多数の命を奪っただけでなく、いまだに多くの人々を苦しめ続けている。しかし同時に着実に恒久救済が行われているということも事実である。この両面の事実を世に知らしめ、事件の風化を防ぎ、二度とこのような悲惨な事件が起こることのないように警鐘を鳴らし続けるのが私たち被害者の責務であろう。本書がその一助となるよう、守る会会員や関係者はじめ、事件と救済事業に関心のある一人でも多くの人々に読まれることを願ってやまない。