森永ひ素ミルク中毒事件の発生

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事件の発生

1955(昭和30)年の6月頃から8月にかけて、近畿地方以西の西日本一帯で人工栄養児の間に原因不明の病気が集団的に発生しました。罹患した乳児がいずれも森永ドライミルクを飲用していた事実から、岡山大学の浜本教授らによって、MF印のドライミルクを分析した結果、乳児が飲めば亜急性ないしは慢性のひ素中毒を起こす量のひ素が検出されました。8月23日に公表されました。

被害児の数は1956年6月の厚生省発表によると、12,131名にのぼり、そのうち明らかにひ素中毒と認められた死亡者が130名という、世界でも例を見ない大規模な乳幼児の集団食中毒事件でした。

不安な顔で病院へ駆けつけた親たち

ひ素ミルク中毒の症状と後遺症の不安

中毒児の症状は、ほとんどの例が発熱し、睡眠不良、咳、下痢、嘔吐等の症状から始まり、皮疹、色素沈着、肝腫を認め、さらに腹部膨満、貧血など典型的なひ素中毒症状を示しました。中毒が進むと腹水や黄疸が出て、けいれん発作や脳症を思わす症例もありました。

これらの症状は、ヒ素入りミルクの飲用を中止し治療を開始すると急速に回復していきました。しかし、親たちは、これだけの症状に苦しんだ乳幼児が、外見的に回復したというものの、果たして順調に生育していくのか、後遺症は残らないのか心配が脳裏から離れることはありませんでした。

事件の「解決」

親たちのたたかい(全協のたたかい)

事件が発表されたわずか3日後には岡山県で、その後各府県に被災者同盟が結成され、9月18日には9府県組織の代表が集まり「森永ミルク被災者同盟全国協議会」(全協)が発足しました。全協はさらに組織を拡大していき、森永に対し子供の回復と補償を求めて交渉を進めました。

 

五人委員会と全協の解散

しかし交渉は難航し、やがて厚生省が委託した学識経験者5人による「五人委員会」が「死者25万円、生存者1万円」などを盛り込んだ意見書を出し、解決を図りました。森永に都合の良い案に対し被害児の親たちは納得せず、交渉を申し入れたが森永は拒否しました。こうして親たちの運動は困難に直面し、1年後の精密検診実施などを盛り込んだ妥結案を受け入れ、全協は解散しました。

 

1年後の精密検診と西沢委員会

事件発生からほぼ1年後に厚生省の指示にしたがって各府県で検診がおこなわれました。厚生省の依頼により、大阪大学西沢教授を会頭とする委員会(西沢委員会)はひ素中毒患者の診断基準・治療指針を作成し答申しました。しかし、その治癒判定基準は極めて簡単なもので、数年で全員が治癒したという結果になりました。

こうして、親たちは子供の健康と生育に不安を抱きつつも、「全快」の診断を信用して、以後全国的な運動を起こすことはありませんでした。

 

<「14年目の訪問」に続く>

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