発刊のことば
昭和30年8月、森永砒素ミルク中毒の赤ちゃん達は、加害者森永の不誠意と、国並びに地方団体、行政当局の冷たい扱いの中で、おざなりの治療で、ゴマ化され、それに加担した小児学会の権威者たちによる「後遺症なし」の断定のもとに、辛い苦しい14年の暗闇の中に追いやられました。
14年たった今、当時の赤ちゃんは中学2~3年の少年少女に成長しました。けれど、砒素中毒の烙印は極めて深く、あるものは視力を失い、あるものは聴力を奪われ、或いは ちえおくれ、内臓疾患等で学校へも行けない子どももあり、見るも傷ましい状態であります。「これが後遺症でないのか」と親達は悲憤にむせび泣きました。
そのような秋、一衛生学者の良心と、それを支えた保健婦、養護教諭、医学生の良心的、自発的、自主的協力作業によって、はじめて子どもたちと親たちに光がともされました。
昭和44年10月30日、第27回日本公衆衛生学会総会における阪大衛生学教室丸山博教授の報告は、暗闇の中で苦しんできた被害児とその親たちにとっては正に暗夜を照らす光明でした。
親たちはこの光を神の救いと仰ぎました。そしてこの光をもっと強くもっと大きくするために手を取り合って起き上がりました。
11月23日に開かれた大阪支部結成総会は“被害児に光を!”を中心スローガンに掲げました。
傷つき病んだ子どもたちには暖かい光を!そして子どもたちをこのような目にあわせ、14年もの長い間闇に葬ってきた者どもに対しては呵責なき暴露と攻撃のひかりの矢を!
このような願いをこめて、このささやかな機関紙「ひかり」は生まれました。
今後、子どもを守る親たちの闘いと共に勇敢にたじろぐことなく、人道と真実のために闘い抜くことを誓って、発刊のことばといたします。
(ひかり編集委員一同)