1.「14年目の訪問」
丸山教授は、以前からひ素ミルク被害児について関心を持っており、中学校を卒業するまでに調査をしなければだれも責任をもって調べてくれなくなると思っていた。大塚さんの家庭訪問以外にも大学の医学生、保健婦さんたちが共感してくれ、勤務時間終了後や休日をつかって68人の調査結果をまとめ、森永砒素ミルク中毒事後調査の会としてガリ版刷りの冊子を発行した。(確実なひ素ミルク飲用者としての人数は67人とされている)これが『14年目の訪問』を呼ばれるものである。
2.第27回日本公衆衛生学会「丸山報告」
その結果は、①脳性神経症状と思われる症状を呈しており、かつ社会生活上何らかの支障をきたしていると考えられるもの=7例 ②外観から観察した場合、身体上何らかの一般的でない症状があると思われるが、社会生活上にはさほど支障がないと考えられるもの=25例 ③何らかの不健康な徴候を訴えていると考えられるもの=18例 67名中50名に異常者が発見されたことは、被害児に何らかの後遺症が存在することを疑わせるに十分であった。
・・・第27回日本公衆衛生学会・・・
(機関紙ひかり掲載「事件発生50周年記事」より)
1969(昭和44)年、10月30日に岡山市で開かれた第27回日本公衆衛生学会において、丸山先生らは「14年前の森永MF砒素ミルク中毒患者はその後どうなっているか」と題して、主として大阪府下に在住する被害者67名の追跡訪問調査の結果を発表した。その日の模様を、同行した大塚睦子氏が著した小説『漁火(いさりび)』(『民主文学』)から一部を引用し、再現したい。
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(共同研究者である衛生学教室の若い研究員が追跡訪問調査の報告を10分ほどの持ち時間を使っておこなった後・・・)
終わるのを待ち兼ねたようにフロアから声があがった。6年前に阪大を定年退官し、今は森永乳業の顧問である西沢阪大名誉教授である。背が高くがっしりした感じの西沢教授は、「私は事件当時厚生省から委託を受けて、被害児検診の基準を作成した専門委員会の委員長である」と胸を張った。
「ただいまの報告によると、被害児に後遺症があるとのことだが、われわれが当時検診した限りにおいては、後遺症と断定できる者はいなかった。私が検診した大阪では、保留3名がいただけである」と述べ、ついで全国一斉精密検診の結果について、
「この問題でもっとも重要なことは、ひ素は脳に移行しないことである。いやしくも医学を修めた者なら承知のはずである。『14年目の訪問』の重症児の多くは、先天性の脳性まひである。ひ素と脳性まひの関連は考えられない」…
西沢教授は再度手をあげて立ち上がった。
「自分は『14年目の訪問』を入手して全事例を読んだ。これだけ重要な調査に専門家は一人もいない。保健婦や養護教諭、医学生ばかりで臨床の医師は一人も加わっていないではないか。問題だ。このようなものを発表するのは学問研究をしようとしている者にとって、はなはだ迷惑なことである」
西沢教授の三列斜め前の席にいた丸山教授が、すっくと立ち上がっている。四方からフラッシュがたかれた。痩身の教授は、左肩を後ろに引いて会場いっぱいの参加者に向かって言った。
「いま西沢教授は、調査には専門家がひとりも入っていないので、信用できないと言った。この学会は、公衆衛生についての研究の場であり、公衆衛生は実践を伴う学問である。保健婦や養護教諭は、現場にあって公衆衛生実現のための最前線の実務者であり、専門家である。もし彼らの報告にいささかの疑念があるとすれば、それを研究することこそ学者の任務ではないのか。その任務を忘れて、頭から一蹴(いっしゅう)しようとする態度は、学者にあるまじき不見識な態度であり、学者の使命を忘れた不遜(ふそん)な態度である。そのようだから国民は、学者を信用しないのだ」
わっと拍手がわいた。
歯切れよく力のこもったその声は、満員の会場に響き渡った。その毅然(きぜん)とした態度は普段の先生からは考えられもしなかった。これで軍配は丸山教授だと思ったらふたたび、西沢教授が立ち上がった。
「この『14年目の訪問』は、保護者が語ったそのままを書き留めたものにすぎなかいのだ。保護者の中には、記憶違いをしているものもいるだろうし、自分に有利なように事実と違うことを言ったものもあるであろう。それらを無批判に記述している。…」
ふたたび丸山教授が立った。
「いま西沢教授は、保護者がしゃべったものは信用できないと言った。信用できるかできないかを検証するのが学者の姿勢だ。ましてこの事件は、世界でも例を見ない事件であった。この悲惨な事件の犠牲になった赤ちゃんを、その後一度も追跡していないのは、私も含めて学者の怠慢である。この14年間、子どもに寄り添ってつぶさに子どもを見てきた親たちの観察、後遺症なのかそうでないのか、その真偽を研究者として検証することこそ、専門家の任務である。学会はそのためのものである。われわれは、後遺症があるなどとは一度も言っていない。あるのか無いのか、それを究めることがいま求められているのだ」
わぁーという喚声とともに拍手がおこった。開け放たれた窓に身を乗り出して中の様子を見ているたくさんの顔が見えた。学会員でないため入場できない被害児の親たちであった。どの顔も涙でぬれていた。
フロアからの発言時間は、約束をすでに大幅に超えている。しかし、白熱したやりとりに司会者はあえて関連発言を許した。
前に立ったのは、岡山の遠迫(えんさこ)医師である。
「私は、事件が終結した翌年より、守る会の皆さんに頼まれて被害児の検診をずっと続けてきた。その中で岡山でも中毒児の異常が見られる。脳神経系にひ素が移行したと考えられる赤ちゃんもいる」
彼は、スライドを使って報告をした。思いがけない援軍であった。この件だけですでに50分を経過した。司会者は第二分散会を設けて討論を続行することを宣言した。異例のことだった。学会は盛会のうちに終わった。…
11月に入って、守る会全国組織が発足した。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」が合言葉だった。
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あの痩身(そうしん)なお体のどこから出てくるのであろうかと思ってしまう力強く堂々たる論陣である。その後の守る会の再結集、国民的支援を受けた闘い、そして今日に至る恒久救済への道は、実にこの「丸山報告」からスタートするのである。
14年間見捨てられていたわれわれ被害者とその家族にとっては、まさに救世主と呼ぶべき大恩人であった。
3.朝日新聞による報道
森永乳業にとっても青天の霹靂ともいうべき出来事であり、「問題は再燃した」と危機感をあらわにした。
これ以降、守る会の再結集、森永との闘い(交渉、不売買運動、裁判)が開始され、やがて、ひかり協会の設立=被害者救済の開始へとつながるのである。
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